永遠の私のヒーロー

 

 

私はイジメにあっていた。

今考えたら、あれはイジメという類いではなく、イジリやカラかいの類いであったと思う。
それでも、思春期の多感な時期の私を、憂鬱にさせるには十分な出来事であった。
でも、今日したいのはその話ではなく、私を救ったヒーローの話である。

 

 ãNebraskaãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

(festivals4fun)

 

 

16歳の私はアメリカにいた。
アメリカンドリーム!カリフォルニアラブ!ニューヨークへ行きたいかー?!
そんな楽しそうな文言がとても似合う国、アメリカ。

 

しかし、私が降り立ったのはネブラスカ州。見渡す限りの空き地、全力で何もない、そんな場所であった。同じ田舎でも、アメリカの田舎はスケールが違う。半端じゃない。
そんな場所で、英語もロクに出来ないまま高校生活を始めた。
大きな辞書を肌身離さずにいた。

 

 

町の人口は約6,000人強、小さな小さな集落のような場所、隣の町までは車で1時間、そして、そこに暮らす人々、そのほとんどが白人であった。
町の人々は皆オープンで、とても優しく接してくれた、ただ何を言ってるのかは分からなかった。
言葉も通じず、何もない田舎町で、私は思いっきりホームシックにかかったのを覚えている。当時は携帯電話なんて勿論ない、皆から出国時にもらった手紙を何度も何度も読み返した。

 

 

学校が始まると、色々な事が目まぐるしい。授業なんかついていける訳がない。忙しい方が寂しさも紛れるし、都合が良かった。
学校生活の中では、友達にはなれなかったが、知り合いはたくさん出来た。
楽しくなっていきそうな学園生活に思いを馳せたし、そこにしか希望はなかった。

 

しかし、ある出来事をきっかけに、その表層が変わる。

 

 

f:id:kh0321:20180504165754p:plain

  

「Hey Jap!!」

呼びかけられて足を止め、振り返る。
同年代、思春期の彼等はおそらく、ただカラかうつもりでJap!と連呼した。
しかし、私はそれを差別用語だと知っていた。

 

あまりに頭にきて言い返すが、言葉が分からない、なんて言えばいいのか分からない、必死に手に持っていた辞書をめくる。
ーーーーさ、さ、さ、、、、さべ、さべ、、、、、
Discriminationという言葉にいきつく間、彼等はお腹を抱えて笑っていた、私は笑われていた。

 

 

いつだってマイノリティは肩身が狭い。白人の中に、急に現れた黄色人種は彼等の格好の的であったのは違いない。
しかも、当時私はラップミュージックにはまっており、HipHopファッションを好んでいた。
白人だらけの世間に、黒人の真似をする、黄人である。面白くて仕方がないといった様子で笑われた。
オールドネイビーやギャップ、アバクロしか着ないお前らに何が分かる。

 

 

「Yellow」と言われた。「Jap」と言われた。
「Dwalf」や「Chin」、「Moneky」と言われた。
言われるたびに私は顔を真っ赤にして怒っていたと思う。きっとそれも彼等には面白かったのだろう。

 

※別話だが、それを見るたびに「止めなさい!」と怒ってくれた同級生の女子アマンダがいた。私は彼女に恋をし、プロムパーティーに誘い、見事に玉砕した。苦笑いされた。

 

 

色々と憂鬱な事も多かったが、いい奴もたくさんいたし、最終的には楽しい学校生活であった。
しかし、事あるごとに日本をネタにされている感じが、どうにも不快で仕方がなかった。

トヨタ!」と呼ばれ、「カワサキ!」や「ホンダ!」とも呼ばれた。
でも、皆乗ってる車は、フォードがシボレーのトラックだった。

 

 

私は日本人である事を誇りに思っていた。
国土もなく、資源もない島国なのに、大きな経済大国になれた事を誇りである。
それを成し遂げた日本人は凄いんだ、そう信じて疑わなかった。

 

でも、本当はそんな事ないのかな…
卑屈になりそうな自分が嫌だった。

 

 

 

 

しかし、ある日を境に、様子が変わる。忘れもしない、2001年4月。
その日を境に、これまでは馬鹿にしたような言葉が変わった。

 

周りの皆が、「凄いな!」「知り合いか?」「そういえばお前も足速いな!」「格好いいな!」と、聞いた事のなかったような尊敬や称賛の言葉を一気に浴びるようになる。

 

彼の戦慄のデビュー。獅子奮迅の活躍。
それはネブラスカの田舎町を席巻するには十分だった。瞬く間だった。

 

私を見かける度に、周りは彼の名前を連呼した。その言葉に羨望の念が強く強く伝わった。
衰えるどころか、勢いを増す彼の活躍は、どんどん拍車をかけた。
友人宅と一緒に観戦をし、彼が活躍する度に私が褒められた。凄いな!凄いな!肩を組んで笑った。

 

ーーーー涙が出るほど、嬉しかった。

 

 

 

 

彼は紛れもなく、私のヒーローである。
あんなに誰かを格好いいと思った事は、2度とない。
卑屈になり、尊厳を失いかけた自分を救ってくれた。
それでいいんだと言葉を掛けられた気分だった。

 

 

時を経て、私も同じように海外に出た。
彼のように、誰かを勇気づけるなんて事は到底出来ないけれど、彼のようにありたいと思う。

 

イチロー選手、ずっとずっと感謝してます。
ありがとうございました。お疲れ様でした。

ソシキンガーZの冒険

ããªã¼ã¤ã©ã¹ã ãããçµµã®RPGã²ã¼ã ç»é¢

 

企業経営とは、冒険の書から始まる。

 

起業したての頃は、大した装備も持たず、それでいて強い仲間を集めに酒場をハシゴしたりする。酒場には、たまに天使(エンジェル)もいる。邪悪な天使もいたりするだろう。

 

事業が少しづつ動きだすと、仲間が増えてくる。
いきなり、ラグナロク(最強装備)を装備しているエンジニアなどが仲間に加わったりする事もあるだろう。
冒険に出掛ける時は、縦列を組んで、経済というMapに繰り出していく。
右に進めば、皆が右についてきてくれる。意志系統がしっかりしているから、迷う事もない。

 

やがて事業が波に乗ってくると、仲間を増やす事になる。
10名程度であれば、隊列を多少変えれば、難なく事は進む事になる。

 

しかし、仲間と旅をする中で気づく時がくる。その時は来てしまう。
「こいつの下に人を配置しないとな…」

 

そうすると、当初から加わっていた仲間に部下が出来る事になる。
これが事業の組織化=ロボ化である。ソシキンガーZの出来上がりである。

 

 

組織が小さい規模であれば、まだ融通が利く。
しかし、30名や50名とかになってくると、経営者やCXOの役割が変わってくる。
前線で剣をブンブン振って、敵と対峙をしていたこれまでど違い、

「いやいや、あんたはちゃんとコックピットに座って指示出して下さいよ」
「バラバラに動いちゃうじゃないですか」

という具合に、前線からは離れる事を余儀なくされる。

 

ロボを動かすには、それ相応の燃料も必要になるので、燃料調達をせねばならない。
あるいは、事業全体方針を決めて、次のマイルストーンを決めねばならなくなる。

コックピットに立つと、ロボの一番上から見渡す事になるので、色々と見えるものもある。
経済を見通した上で、物事を俯瞰して見ねばならない。
これから来るであろう脅威、かと思えば、青そうに見える大海も見えてきたりする。
自分達の進行方向を改めて上から眺めてみると、

 

「あ、やべ、この先、めっちゃ坂道じゃね?」
「もうちょっと左の方進まないと、まずい事になんじゃね?」と気づいたりもする。

 

そうすると、コックピットから指示を出さねばならない。
「全体的にもう少し左―!このまま進むと沼地があるー!」と。
そうすると、ロボが方向を少し変えて進みだすのである。

 

但し、これが続くとなると、上手くいかない時が多々出てくる。
これが経営者の最も辛く、苦戦を強いられる部分だと言っても過言ではない。

 

「(この先、崖だな…) もうちょい右―!」と指示を出したとしても、ロボが大きいと、
あれ?右進んでなくない?あれ?あれ? となる。

よくよくロボを見直してみると、右足だけ思いっきり言う事聞いてなかったりするのである。
ちょっとちょっとー!なんでよー!と言ってコックピットから降りて、右足部分まで駆けおりていく。
右なんだよ、右進んだ方がいいから!右進まないと!!
と熱心に説明をして理解をしてもらう作業が必要になってくる。

 

もっと怖いのが、
(少し先に真っ青な海が見えるなー!魚いっぱいいそう!でも、その前に泥沼通らないといけないな…)って時もある。

そんな時でも、「この先は青い海だから!本当だから!」と言って促す、
しかし、今度は左足が「自分ら、このままがいいっす」「泥沼は嫌っす」と言って理解してもらえない。

何度も何度も、熱心に熱心に説いても、
「汚れんの自分達っすから、さーせん」と、、、

 

むむむ、、、となって一旦コックピットに戻ると、事件が起こる。
急に右腕が、「ストロングライトー!」と言って飛び出していってしまう。管理職の離職である。

右腕を失ったロボは平行感覚を失うため、経営者は急遽、右腕を代理で努める事になる。

 

そうこうしてるうちに、左足が泥に足を取られだす。
沼が思ったよりも深く、中々前に進まない。
沈んでしまった目線では、目線が低く、もはや、前に見えていたのは本当に青い海だったのか自信が無くなってくる。

 

それでも、ブレてはいけない。「前進―!前進―!!」
と心の声は枯れそうなくらい叫び続ける。いや、23回くらい枯れるだろう。

 

そうこうしている間に、何とか沼を通り抜け、海にたどり着く。
あの日見ていた程、澄んだ青色ではなかったとしても、とにかく前に進める喜びがそこにはある。

ロボットは少しボロボロになってしまったけれど、魚(燃料)が手に入るので、また改築出来る。

 

しかし、青い海はずっと続くわけではない。
そこで考えるのである、どうすればいいのか、、もうあんな思いはしたくないと考えに考えた末に思いつく、

「ロボットに翼をつけよう!!」
翼という名の新規事業である。
社内コンテストと題して、新規事業を募り、急ピッチで翼を作り、空を飛べるだけの材料を揃える。

よし、後は飛びたつだけだ!!
3,2,1、点火(ローンチ)!!!

 

飛んだ、飛んだはよいものの、空を飛ぶためにはジェット燃料が必要である。
中々補給出来ないまま、やがて燃料が底をつきだす。
こ、こんなに燃料必要やったんや…

 

くそー、もう少し、もう少しなのに!
とにかく後は地面に墜落するか、不時着するかだけである。
その頃には、もうそれはロボットではなくなっている。

 

勿論、上手く風に乗れる場合もある。
その場合、これまで以上に遠くに高くに辿り着く事が出来る。
ある程度風に乗ったので、細々な指示を出さなくても、風が運んでくれる。燃料もさほどいらない。

 

経営者はコックピットを改築して、テラスデッキを作る。
バーカウンターなんか作っちゃって、たまに読者モデルの子も遊びに来たりするのかもしれない。
成功者としてAERAかなんかに特集されちゃう。NewsPicksのコメントは毎回100イイネがつく。

かどうかは知らないけれど、こうして上手くいくケースだってたくさんあるだろう。

 

 

一方で、墜落した彼はというと、また「始まりの町」で仲間集めをしているかもしれない。
かもしれないし、他のロボに乗組員として参加しているのかもしれない。

 

ロボットの操縦は、本当に難しい。大きくなればなるほど、複雑さは増すばかりである。
だからこそ、重要なのは、その関節部分である。
右に動こう!となった時に、それに呼応してくれる関節があるかどうか…これで経営は変わる。

 

組織化をしていく過程で、出来上がっていく様々な関節、
その関節部分をつかさどる管理職こそが、巨大ロボの操縦には欠かせない要素である。
だから、どうしても想いが重ならない時は、自分の右足を切り落としていく覚悟も必要なのである。

 

 

一度動きだすと、ロボットは止まらない。
今日もコックピットは、たくさんの孤独と希望に満ち溢れている。

クラウドファンディングから気づく、新しい価値観の形

「bruce lee」の画像検索結果

 

「考えるな、感じろ!」 

先日の話になるが、インド時代にインターンをしてくれていた後輩から連絡がきた。
顎の尖った彼は、決して器用ではないが、大きな大きな貢献をしてくれたし、何度も何度も一緒に酒を飲んだ、そんな仲である。
そんな彼は、大手情報系の難関起業より内定をもらい入社をしたが、どうしても起業したいがために半年足らずで退職をしたいという事であった。

 

「やりたい事があるんです!」
と熱心に電話口で語る声を聞いて、「やったらええんちゃうの?」と湿り気のない返事をした気がする。それでも応援している事には間違いない。

 


そんな彼からの2度目の連絡は、起業を実現させるという内容のものであった。
兼ねてより宣言をしていた、アフリカで起業をするという。なんと素晴らしい若者か。
長くお礼を伝えてくれているメッセージに、感動を覚える一方で、文の後半に私には目新しい提案があった。

 

本当に厚かましいお願いなのですが、早瀬さんに3万円支援して頂きたいです! 僕の初めての上司は早瀬さんで、しかもインドの代表から毎日叱られていたかと思うと、ほんと自分はラッキーです。現地の人とのかかわり方、仕事の仕方を身近にたくさん学ばさせていただきました。 それを今度はケニアの人と一緒に実践していこうと思っています!ほんと未熟ですが、できることからやっていこうと思います!

 

ーーーーん?

この「3万円支援してもらいたい!」という直接的な嘆願が、私には全く新しく、少しだけ理解の範疇を越えかける。一体なんで3万円を支援するんだろうか…
「あのー、俺は3万円払ったら、一体何がもらえるんやろか?」

 

1日自由券です!!ケニアでできることは何でもします!
 https://camp-fire.jp/projects/view/43989

 

 

3万円を支援したら、彼のケニアでの一日をもらえるという事。ケニアで市場調査を依頼してもいいし、ツアーガイドをお願いをしてもいいらしい。
一日で3万円、肉体労働などをすれば稼げない事もない金額である。

送られてきたクラウドファンディングの記事を熟読してみる。
内容を見る限り、「ケニアで牛乳屋さんがやりたい」らしい。フレッシュなミルクを、現地の人に配達で届けるサービスをやる模様。それをやると助かる人がいるらしい。


で、この事業に自分の想いが重なるかと言うと、残念な事に全く重ならない。
ケニアで牛乳屋をやりたいと、私は残念ながら全く思わないのである。
フレッシュなミルクが飲みたいなら、私にはマザー牧場がある。

 

さて、ここまでを纏めてみようと思う。

  • ・彼は3万円の支援をして欲しい
  • ・その見返りは、彼のケニアでの一日自由権
  • ・3万円は貸すわけではなく、支援、つまり進呈をするという事
  • ・投資商品ではないので、お金が大きくなって返ってくる訳ではない
  • ・牛乳屋さんをやりたい気持ちは、私にはない

 

ここまで整理をしてみると、私には3万円という大金を支援する理由が乏しい。
頭で考えて、あるべきはずの何かを探しても、見つからないのである。




ーーーしかし、私は支援を決めた。
というよりも、最初から支援をする事は決まっていた。

 

 


「好き」という感情だけで、十分理由になる。

知識や経験が少なからず人を形成していくのは間違いないが、それと同時に、その知識や経験が勝手に一つの価値観を作ってしまっている。この価値観というやつが、感覚を思いっきり妨げてくるのである。

 

今回の件でも、わざわざメリットーとか、理由ーとか、リターンーとか、そういうのを考えている。どこかで「そういうのが必要」って価値観が刷り込まれている。それが何故か、どこから来たのかは分からないけど。

 

それでも、私が、彼に支援をすると決めた理由は、


「イイネ、その事業、将来有望ダネ」とか、
「事業内容はともかく、君という人間に賭けてみるよ!(ドヤ」とか、
「事業が成功したら、株式を譲ってくれるね?(ムフフ」とかでもなく、

 


ただただ、単純に、「彼の事が好きだから」である。
そこに対する支援金額は、自分の台所事情と相談をすればいいだけでしかない。



この好きという感覚だけで、理由としては十分である。
にも関わらず、いちいち頭で考えて、これまでの価値観で判断をしようとしてしまっている事に気づく。
感覚で判断をすればいいものでも、頭で考える事によってストップしてしまう。

 

普通はそう!一般的にはこう!世間体が悪いのでどう!とか、気づいてる人はもう辟易してる。
悪い事だと決めつけて報道をするメディアにも辟易してる。
辟易してるので、そうゆうのどうでもよくなる、そんな時代が迫っているような気がする。これからは、そう変わっていくんだと思う。


 

 

 

ケニアで一日中、一緒にお酒を飲める日を楽しみにしてる。

頑張れ、ダイキ。

 

 

ケニアで牛乳屋さんになって、おいしくて、お手頃価格の牛乳を届けたい!

https://camp-fire.jp/projects/view/43989

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

火曜日の憂鬱 -インド人と日本のお菓子ー

「レーズンバターサンド」の画像検索結果

以前、新しく入社してくれた日本人が、北海道出身であった。
そのため、日本からのお土産がレーズンバターサンドであった。
これには日本人社員一同テンションが急上昇し、6つあったバターサンドの3つが一瞬にして胃袋に消え行く。


「美味しい、ただただ美味しい…」


なんで日本のスイーツはこんなに美味しいのか、どうしてもこの美味しいお菓子をインド人の口に含ませてやりたい。

 

 

インドにて、インドのご飯を、インド人と一緒に食べると、インド人の「食べてみ?」ラッシュが始まる。
「これは?ほら食べてみ?これもほら?美味しいやろ?な?な?そやろ?」
といった具合に、食卓に並んだ全ての料理を、余すところなくオススメされる。


お、おぉ、美味しいな…、これ、お前が作ったんかい?と聞くと、「うちのシェフだ!」とドヤ顔される。
お前ちゃうんかい。

 

 

一方、こちらが日本食をすすめると、しかめっ面をして、断ってくる。
「そんなもの、人の食べ物じゃないわ・・・」という具合の顔である。
宗教の戒律があるため、ある程度は仕方ない、それは理解しているものの、そんなに全力でバリアしなてくも・・・

 

しかし、お菓子だけは別なのである。
日本のチョコレートだよー。というと目を輝かせる。
それはそうだろう、インドのお菓子は、なにやら小麦粉を丸めたものを、ガムシロップにぶち込んだだけの物体である。
それでも、彼等は、「ほらほらー、インドのお菓子は美味しいよー」と言ってすすめてくるのだが。

 

そのため、日本からお菓子を買ってきては、彼等に食べさせる。ダースやグミなどはとても受けが良い。そして、今回はレーズンバターサンドだ。

先ずはノンベジタリアンに渡す。それでも、何故か毎回警戒される。
次に、ベジタリアン(菜食主義)に食べたい人~と言うと、必ず「何が入ってるの?」と聞いてくる。

 

ベジタリアンでも、色々あるようで、食べていいものダメなもの、その基準は宗教の宗派によってそれぞれである。
今回も素材表を見ながら、小麦粉~、砂糖~、と読みあげていくと、卵~ のところで、Oh~という溜息が発せられる。


「あれ?卵ってだめだっけ?」というと、「今日は火曜日よ!」と返される。
そんな、火曜日よ!とか言われても。。。

 

どうやら礼拝の関係で、曜日によって食べれるものが異なるらしい。
そうか、それはすまんかったな、ほなら明日食べたらいいんちゃうか。と説明する横目で、ノンベジタリアンが一口食べた後に「美味しい…」と一言。
そうすると、「やっぱり私食べるわ…」と言って手を伸ばしてくる。
さっきの火曜日よ!はどこいってん。
とツッコミたくなるくらい、インドの宗教は厳格なのか自由なのか、もはや良く分からない。

 

 

 ちなみに、どのお菓子をあげても、絶対にその場で手を付けないインド人マネージャーがいた。
ある日彼に、「どうして食べないんだい?」と聞いたところ、
「僕がこのお菓子を家に持って帰ると、息子が、パパが日本に行ってきたんだ!と大喜びするんだ…」と照れ笑いをしていた。

 

そんなパパに、私もなりたい。
嫁探しの旅は、終わらない。

 

私がインド赴任を決断した理由

「日本は最高の旅行先である」

成田発のシンガポール便の中で、私はそう確信をした。
四季によって変わる景色模様、優しくオモテナシ精神満載の人々、言うまでもなく美味しい料理、久しぶりに帰ったとしても、温かく迎えてくれる家族や友人、世界各地に旅行に出掛けたが、日本以上の国はない。言うまでもない、最高である。

f:id:kh0321:20170719200006j:image

 

 4年前の今頃、私は焦っていた。何に焦っていたかは覚えていないが、とにかく焦燥感にかられ、「このままじゃいけない」と強く感じていた。「このままじゃ、このままじゃ、、、」それに続く言葉を分からないまま、今に焦り、何かを求めていた。そんな中に選択肢としてあった最も大きな一つが、「海外」であった。幸いな事に、弊社には海外拠点がたくさんあったため、海外勤務希望を出し続けて機会を待った。暮れども来ない吉報に苛々し、行けないなら辞める。そう決断までしていた。


きっかけは、ある秘書からの一本の内線電話。「会長がお呼びです」。私はついに、目の前にあるであろう機会に胸を躍らせ、なるべく高揚を悟られないように会長室に入った。その時の会話は、今でも鮮明に覚えている。

「あなた、海外へ行きたいんだって?」
「そう、それなら、あなたは来年からインドです。」

是非をも問わない言い方に、高揚がスローモーションのように戸惑いへと変化していく。
インド?え?

 f:id:kh0321:20170719193758j:image

 

私がインド行きを決断した理由

今でも聞かれる質問だが、何故インド行きを決断したのか。これについては何のドラマもないし、悩みがなかったわけでもない。ただ、インド行きを迫られた一週間、私が考えていたのは「私が断ったら、誰かがアサインされる」という事であった。もし、その誰かがインドに行き、実績を出すような事があれば、私は身投げをする思いに駆られるであろう。勇者になるには、今しか決断出来ないのである。


その頃から、断る理由を探すのを止め、誰も抜いた事のない剣を抜いて、冒険に出掛ける手続きを始めた。

当時既に11月、年末までの2ヵ月間で住居の解約、業務引継ぎ、各所報告、親への業務、そして彼女との別れと、矢継ぎ早に色々な事が起こり、全く現実味を帯びない日々であったが、最後の大送別会は響いた。


こんなに優しい人たちに囲まれているのに、何故私はそこから抜け出そうとするのだろう?」考えても答えは出なかったし、既に出した答えが変わる事はなかった。

 私はインドについて一切知識を持っていなかった。ただただ市場に溢れていたのはネガティブなイメージばかり、それ以外は行った事も勿論なかった。調べれば調べるほど、あらゆる側面からネガティブな事を見聞きする、改めて凄い国である。

 

腹痛、ぼったくり、婦女暴行などなど、こんなにも人に毛嫌いされて、それでも尚、訪れる人が後は絶たない。

 

美味しくないよ!って言ってるのに、そのレストランには人が訪れる。ほんとに美味しくないんだよ!って言ってるのに、またそのレストランを訪れる人がいる。でも、何故だか、そこの料理を食べれば、一気にレベルアップが出来る!人生が開花する!インドに行けば人生が変わる!などの歌い文句に人々は誘われる。
で、実際に人生が変わったのかって言うと、それはこの後を読んでくれれば分かる。かもしれない。

f:id:kh0321:20170719201819j:image

 

あの日の絶望と微睡

初めてインドを訪れた衝撃は今も忘れない。目に入ってくる景色、場所の匂い、雰囲気、どれをとっても私には初めてのものであった。2014年のはずなのに、気分は200X年、ジャギステージ。砂埃が舞う街並みに、そこらに寝転がる明らかに貧しそうな人々。ヒデブ!とは言わないまでも、まじか…と何度も何度も口にした。そして、これからの生活と仕事を思い、途方に暮れた。アジアは知っていたつもりだった、しかし、そこには思い描くアジアとは種類の異なる風景が広がっていたのである。
 

あの日の絶望を忘れたわけではないが、私はインドに行って良かったと本音で思っている。本当に行って良かった。インドにいる中で色々なものを手に入れたと思うが、その最たる例が友人達である。インドの中で、友人とはその年齢を問わず、例えば50代の大先輩であったとしても、ある種では友人と呼ぶに相応しい、そういった間柄を築けるのである。その貴重さは計り知れない。

インドに到着して間もない頃は、絶望の微睡から抜け出せずに、何をどうすればいいのかパニック状態である。そんな中で出会う日本人の方々は、口を揃えてこう言う、「困った事があったら、何でも聞いて下さい」。その飾りのような言葉が信憑性を欠くのだが、数ヵ月後、自分より赴任日が浅い人に出会った時、全く同じ台詞を放つ自分がいる。部族の強みか、私は友人達がいなければ、インドでは生き残っていけなかったと思う。

 

 落ち込んだりもしたけれど 

慣れというものは恐ろしいものであり、次第にインドという国の不便さにも疑問を抱かないようになってくる。目に入ってくる、およそ異常な光景にも、普段からそこにあったものと同じように捉えるようになる。

 

インド北部では、ある季節になると、素足で、派手な格好で樽を担いで一生懸命歩く人達が急に現れる。彼等はガンジス川の水を聖なる水と呼び、それを歩いて持ち帰る事で神様を信仰する。最初はそれを見て疑問を抱く、彼等の宗教への信仰心、そしてその合理性の欠如に対して、価値観の許容範囲を軽く超えてくる。それも、2年目以降は季節の風物詩へと変わってゆく。

食の不便さも同じように、日本食を求めて、タイやシンガポールへ出掛け、大量に食料を買い込んで帰るものの、食材の賞味期限がどんどん切れていくのに気付いた頃、本当に食べるものだけを買い込む技術、そして勿体ぶらずに食べる勇気を見につけていくのである。「慣れ」とは人間が持つ、生き抜くための力なのである。

 

魔の巣窟といった代名詞を欲しいがままにしているインドだが、良いところも勿論ある。経済成長だって凄いし、ビジネスのダイナミズムは他国では味わえない。チャンスだって無数である。ただ、実感できるレベルで聞かれれば、私はインド人だと答える。彼等ほど純粋で、愛嬌に溢れた人間はいない。一緒に仕事をする中で、何度もパソコンを放り投げかけたし、騙されたことだってある。約束は守らないし、平気で嘘をつく。嫌だった事を数えれば、天文学的数字になるだろうが、それでも尚、彼等に救われた事だって何度もある。

  • お腹が痛いと言えば、5人から5種類の薬をもらったりした。(結局怖くて一錠も飲めていないが)
  • どれだけ怒鳴り散らしても、翌日には笑顔で「おはよう」と投げかけてくる。
  • 覚えたてのヒンディー語を話した時は、赤子が初めて喋ったかのようなリアクションをしてくれる。

 

辛い辛い辛いよーーーそう思う日々も勿論あったけれど、多くを教わった。

  

f:id:kh0321:20170719202559j:plain

インド赴任者に会ったら聞いてみて欲しい

ちなみに、インド人は全員ターバンを巻いているわけではない。ターバンを巻いている人は一部のシーク教信者である。これを見ている貴方は、インド=ターバンというイメージを変えた方がいい。インド赴任者に「毎日カレーを食べるの?」も聞かない方がいい、100回以上回答している。「やっぱりお腹壊すの?」「牛肉食べれないの?」も同じである、そんな質問はググればよい。

 

その代わり、貴方がインド赴任経験者という未だレアな存在に出会ったなら、どうかこの質問を投げてみて欲しい。「インドに行って良かった?」と。

多くの彼等は頷くだろう。もし、首を横に振る人がいたら、きっとその人は、既にインドに染まっている人だろう。